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考古学者シュリーマンとロシア

古代ギリシャの吟遊詩人ホメロスの叙事詩「イリアス」に詠われた世界を子供の頃から現実のものと信じ続け、のちにトロイヤ文明ミケーネ文明の遺跡を発見したドイツ人考古学者ハインリヒ・シュリーマン(1822-90)は、メックレンブルク州シュヴェリーンの小都市ノイエ・ブコウに生まれました。 作家ドストエフスキー(1821-81)とはほぼ同世代です。
14歳で働き始めたシュリーマンは、ラテン語、英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、イタリア語を次々とものにし、1844年アムステルダムの「シュレーダー商会」に入った頃にロシア語を学習したことが機縁となって、1846年から64年までの20代から40代にかけて18年もの間サンクト・ペテルブルクを中心にロシアを拠点として働くこととなったのでした。
幼友達でホメロスの詩について夢を語り合ったミンナが結婚していたことをロシア到着した時に知らされ、心機一転、ロシアでの仕事に精を出します。
1847年にはロシアの国籍も取得、1852年ロシア人女性エカチェリーナ・ペトローヴナ・ルィジナと結婚、セルゲイ、ナタリア、ナジェージダと一男二女を儲けたにもかかわらず、活動的な夫が商売で飛び回っていたため夫婦仲に距離が生じてしまいます。1864年にシュリーマンはロシアから離れ世界周遊の旅に出た後1869年にはエカチェリーナと離婚、ギリシャ人のソフィアと再婚に至るのです。現在残されているエカチェリーナからシュリーマンに宛てた手紙は180通にも及ぶのですが。
シュリーマンのロシアに於ける最初の11年間は商会の代理人としての仕事をするかたわら、ギルドに登記されて独自の活動も行い、もっぱら染料のインド藍(インジゴ)の取引によって大儲けをしてモスクワに支店を設けたり、1850年アメリカを訪れた際には丁度カルフォルニアに州が制定された時に当たり合衆国市民となったりもしました。1853-56年のクリミア戦争ではロシアの港が封鎖されたためにサンクト・ペテルブルクに向かう貨物は全てケーニヒスベルクやメーメル(現在のリトアニアのクライペーダ)などのプロイセンの港を経由して陸路で運ばれたその利権を得、1861年から始まった南北戦争などによる大きな影響を受けインド藍のほか、オリーブ油、木綿、木材、茶などで商売の成功をなし遂げ莫大な財産を築き上げたのでした。 サンクト・ペテルブルクにおいては常に仕事が山積していたために暫く休止していた語学の勉強も、1854年になってようやくゆとりが生まれてきて、スウェーデン語とポーランド語を手掛け、さらには、現代ギリシャ語と古代ギリシャ語、そしてまた、アラビア語を習得するに至り、後のトロイヤ発掘(1871-73)に役立つ下準備が整ったわけです。
シュリーマン20代半ばから40代にかけてという人生の最も精力的な時期は、とてつもなく興味が尽きないもののやや誇張されたと言われる自伝を精査するだけでもなかなか跡追いが容易ならないですが、サンクト・ペテルブルクで商才を伸ばし資金を稼ぎ、幻の古代都市の夢をふくらませてゆく、外国商人がそこで大きな利益を上げることが可能であったという環境は注目に値します。

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