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ウラジヴォストークの中国人

東(ヴォストーク)を領有する(ウラジェーチ)という言葉が都市名となっているウラジヴォストーク。この美しい港町は日本に最も近いロシアであることから、近年観光客の増加が見込まれ2017年からは電子ビザが適用されました。僅か2時間の飛行でヨーロッパの街並みに接することが出来ると注目を浴び、S7航空やアエロフロートの系列であるオーロラ航空等のロシアの飛行便のみならず2020年からは日本航空と全日空も運航便が加わる目前のコロナ禍です。
 脚光を浴びる期待が止まってしまった現在、ここ30年の間ウラジヴォストークへ8回渡航した私的な思い出を顧みると、訪れる毎に印象が大きく変化していった街であることを感じます。
太平洋艦隊の拠点として20世紀後半は閉鎖都市であったウラジヴォストーク、ソ連邦崩壊直後1992年に外国人に開放されたと知るや当時モスクワに駐在していた私は勇んで東へと飛んだのでした。ビザ申請時に滞在都市を記載しそれ以外は訪問不可といった規制が無くなるという時代の流れを喜んでいただけに、ウラジヴォストークに到着した途端一時代前に戻ったかの如くビザ上への都市名特記の必要を告げられた時の戸惑い。役所で手続きを済ませるため先ずは到着の朝から夕べまでを費やす忌々しさ。湾内には廃船寸前の軍艦が沈みかけ、気まずい光景があるから閉鎖都市としていたのではと勘繰りたくもなったものでした。
歴史を紐解くと、唐の東北部の隣国であった渤海、その後の契丹人らの遼、女真族の金、そして元、明、清の領域となり、1860年の北京条約によって漸くロシアが沿海州を清から獲得、20世紀初頭は国際都市の様相を呈し中国人街ミリオンカ、朝鮮人居留区、日本人町などがロシア開発都市の中に併存していました。
マフィアの拳銃発砲や硫酸事件などを耳にした90年代半ば頃迄の暗いイメージは近年次々払拭され、家庭訪問で知合った一家と交流が続いた思い出、歴史を探り知識が膨らむにつれ、そして又趣向を凝らした商店や洒落たレストランと次々に出会うにつれ、2019年牧阿佐美バレエ団の極東マリインスキー劇場での公演ツアーでの訪問に至る迄、街への親しみは段階的に高まっていったのでした。
2017年「飛鳥II」が寄港することとなり迎入れの手配を請負いその準備の為数日滞在した時には、手配提携先、港湾関係、食事場所、土産店、訪問先各所を四方八方巡り連日2万歩3万歩と至るところ坂ばかりの道を歩き回ったものでした。愈々船客を迎える朝には足が疲弊し、靴を外すと何と底がペラペラと外れてきているではないですか。その無様な姿を目にしたタクシードライバーが「橋を越えると中国人が座っている」と言います。偶に見かける北朝鮮人のこと? 或いは新時代のビジネス出張者? キョトンとしている私を乗せたタクシーは金角湾にかかる黄金橋を渡り掘立小屋の前で停車、そこには恰も仙人の様な白髭の中国人が座っていたのです。太い針と糸とでアッと言う間に靴を修理してくれた腕利きの老人は正に魔法使い。お陰様で足取り軽く豪華客船へと向かうことが出来たのでした。

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