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ロシア人の心のふるさとプスコフ

 春を迎えるとモスクワでの会議が待っているという十数年前のこと、移動日として一日置いた先にサンクト・ペテルブルクでの仕事も入るや、その移動を夜行列車で繋いで真ん中の一日を有効に、しかも若き日の放浪癖がふつふつと頭をもたげてきて、ロシア西部の国境近くの古都へと足へ向けてみようと束の間の一人旅を計画したのでした。
日暮れてモスクワを発車した寝台列車は西北西に向かって走ること12時間、茜色に染まった朝焼けの空が白んでくるや、白樺林の風景が徐々に家が散見され始めプスコフ駅に到着、1858年サンクト・ペテルブルク/ワルシャワ間に初めてロシアの鉄道が開通したときに造られたロシア最初の駅舎の一つ、美しく歴史的な建造物は1917年3月ニコライ2世がここで退位を表明したことでも知られています。
しかし何よりも、古代ロシアの建国伝説「原初年代記(過ぎし歳月の物語)」に登場するオリガ公妃、まだキリスト教が受け入れられる以前の957年に最初に洗礼を受けた女性の出身地である「プスコフ」はロシア人のルーツを辿る民族の心のふるさとであり、プスコフ川とその本流であるヴェリーカヤ川との合流点のクレムリン(城塞)に向かって歩を進めることで、愈々旅ごころが高まってくるのでした。
時間を忘れ地図も持たずに、駅から旧市街までの道のりを30分ほど歩く途上、地元の方から聞いた話によれば、第二次世界大戦中この町の住宅地の96%が爆弾攻撃に遭い18軒の住居と歴史的建造物のみが残ったとのこと、メイン・ストリートはオクチャーブリスキー(十月)大通りと呼ばれ、戦後スターリン時代の如何にも強固そうな建物が町並みをかたち作っています。ソ連時代は軽工業の中心地として工場であったところが近年商店に変貌したとのこと、大都会と比較するとソ連邦崩壊前のロシアへタイムスリップしたかの様なのどかさが懐かしい位に感じられるのでした。
オクチャーブリスキー大通りの先、15世紀の壁が通りによって分断されるかたちで出現、壁の一部は今やカフェに利用され、かつて5つの壁で囲まれた国境の町を思い起こさせてくれます。聖ニコライ教会を始め15-16世紀の幾つかの教会を左手に見ながら中心部レーニン広場にやって来ると、今も堂々たるレーニン像が迎えてくれます
プスコフという地名は古代フィン語の森という言葉に由来しています。現在のエストニアやフィンランドに住むフィン人が元々住みついていたところへ、5-6世紀頃スラヴ人が入り、古代ルーシはヴァリャーグ(スウェーデン・ヴァイキング)が支配層として君臨、町の新市街と旧市街の間に石像が立つオリガ公紀もヴァイキングの末裔としてヘリガとも呼ばれていました。近年プスコフの古代層を発掘していく中で、スカンジナヴィアと共通するヴァイキングの遺跡を見出していると聞かされ古都へ来たことの興味は尽きません。
町に40以上ある教会はスターリン時代その活動が禁じられ、ペレストロイカの時代となって漸く10ばかりの教会が復活、私が訪れた時には26の教会がロシア正教の宗教活動を行っているとのことでした。
その中心となるのが、レーニン広場に立つレーニン像が顔を向けているクレムリンの建築群、2019年にユネスコの世界文化遺産に登録されたその城壁内中央に聳えるトロイツキー(至聖三者)大聖堂です。
エストニアの国境まで50キロ、プスコフはバルトからヨーロッパ諸国にかけてのかつての交易の重要な町でもありましたが、リヴォニアやドイツ騎士団、スウェーデンによって攻め込まれた時にはロシアにとっての戦いの最前線の町でした。従って、時代を感じさせられる強固な要塞プスコフのクレムリンは、モスクワのクレムリン以上に砦と呼ぶに相応しい趣きがあります。クレムリンの壁の要所要所には木造りの円錐屋根の付いた円柱の塔が見られ、その特徴的な、今となっては牧歌的ともいえるロシアの景観のいにしえの美しさを脈々と伝え、往時を偲ばせてくれるのでした。

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