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ウラジヴォストークの日本人

ウラジヴォストークを訪れた観光客は、ポクロフスキー聖堂に立寄ると共にオケアンスキー大通りを隔てて旧極東大学日本語学科前に建てられた「与謝野晶子記念碑」をご覧になることでしょう。森まゆみ「女三人のシベリア鉄道」で描かれた与謝野晶子(1878-1942)が1912年に、又、中條(宮本)百合子(1899-1951)が湯浅芳子(1896-1990)と共に1927年に、そして林芙美子(1903-51)が1931年にシベリア鉄道の旅をしたそれぞれの歌人や作家に思いを致す方もいらっしゃることでしょう。
 しかしつい通り過ぎてしまいがちですが、その記念碑から南西に300m程歩いたところに建てられた「浦潮本願寺跡」を示す、一見何の変哲もない碑をご覧になったならば、戸泉米子(1912-2009)「リラの花と戦争」を是非とも読まれるようお薦めしたい思いに駆られます。何しろ一世紀昔のウラジヴォストークの様子がまざまざと目の前に現れ、事実は小説より奇なりではないですが戦時下の深い悲しみ、恐ろしさ、ロシアの方たちとの言い知れぬ友情、その計り知れない貴重な人間ドラマを共有する至福の読書時間を持たれるに違いありません。
 旧姓箭竹(やたけ)米子さんは浦潮本願寺住職戸泉賢龍と1933年に結婚され、その4年後の寺院閉鎖に伴って16年間の濃密なウラジヴォストーク生活を終え帰国したのは、まだ人生20代半ばのことでした。
 そもそもの話の発端は今からちょうど100年前、ロシア人技師クジマ・セレブレコーフを夫に持つ箭竹ヤスさんが里帰り先で姪の米子さんに声掛けすることから始まります。夏休みの一ヶ月ウラジヴォストークに行ってみないかとの誘い、好奇心旺盛な9歳の女の子にとってどんなに刺激的だったことでしょう。その話に飛びつき海を渡ったことから彼女の運命は大きく動き出すのです。当時日本人が5000人ほど暮らしていたウラジヴォストーク、日本人町は市の西側でしたが、伯母さんの住まいはそこから離れた市の東側。そのためロシア人との交流に恵まれ、米子はニーナと呼ばれるようになります。すっかり町が気に入り居着くことになった少女は予定を大きく変え現地の日本人学校に転校、更にはロシア人女学校に進学、遂には極東大学教育学部で学ぶに至るニーナ。外国からの干渉軍、日本軍のシベリア出兵が続いたこともあり、極東はソ連政権が遅れてやってきます。時代の波の影響はとてつもないもので徐々に生活が変化、労働奉仕の体験、本物のジプシーの占いで棺が見えると婦人が予言され的中する奇怪な出来事、スターリンの暗黒時代が忍び寄りGPU(ゲー・ペー・ウー)からのスパイ強要の恐怖…。
 結婚後も夫があらぬ禁固刑を受け帰国がばらばらとなったと思ったら、その翌年の1938年には陸軍特務機関の任務を受け一家は満洲へ、延吉での敗戦を迎えてからというもの次女紘美が栄養失調で亡くなり四男勝が病死、米子さんはソ連参謀本部付通訳を受けざるを得なくなります。さらにウラジヴォストーク近郊ウゴリナヤ捕虜収容所での通訳生活により日本人捕虜抑留の実態が生々しく綴られていきます。
 12歳の長男弘爾を筆頭に、2歳の時の小児マヒ感染で足が不自由な長女朱美、次男哲、延吉の収容所で階段から転げ落ち瀕死の打撲から奇跡的に助かった三男徹の四人の子供を連れて1946年12月にナホトカから舞鶴への引揚げ、1956年には夫が長いシベリア抑留から帰還したのでした。
 浦潮本願寺跡地に碑が建てられたのは寺の撤去から63年ののち、跡地は全く当時の面影を見出せなくなってしまった2000年のこと、その2年後には桜が植えられ更に12年後の米子さん生誕100年記念にライラックが植樹され、今ではその広場は日本と沿海地方との善隣友好のシンボルとなっているのです。       

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