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バルト三国から見たロシア

古都タリンの石畳を踏締めながら親日家の現地ガイドが「エストニアと日本は隣国です」と語り、即座に「しかし、間にロシアが入り込んではいますが」と続けるのでした。国の東端、ロシアとの国境を接するナルヴァ川について話題が上がった時には「川を泳ぐ魚の半身はロシア、あとの半身はエストニアのもの」などと冗談を口にします。
 フィンランド語同様フィン・ウゴル語派のエストニア語、ヨーロッパの言語の中で由緒あるバルト語族のラトヴィア語とリトアニア語と三ヶ国それぞれ独自の誇るべき言葉を持つ国々ではありますが、ソ連時代はロシア語が共通言語であり、三国を通しで案内する現地の人にとっては今もってロシア語が活用されています。しかしながら、ソ連邦からの独立後は、例えばリトアニアのガイドが国境を越えリガからタリンへ進む途上ロシア語で声を掛けた相手から唾を吐きかけられたなどという残念な逸話もあります。
 1980年代後半ソ連邦ゴルバチョフ書記長がペレストロイカ、グラースノスチを謳い、自由の気風が生まれ民族自決の機運が高まり、600キロの長さをバルト三国の200万人が「人間の鎖」となって繋がり歌でソ連邦からの独立を勝取った歴史があります。1991年末にソ連邦が崩壊するとはソ連首脳部にとっては想定外であり、ましてその前段階でバルト諸国が独立のため立上がったことに対してゴルバチョフが武力を行使してしまったことで、それまでの鬱憤が爆発し独立後も根深い反感を生んでしまったのでした。
 私にとっては、1976年旧ソ連邦及び社会主義国であった東欧諸国巡りを起点としてユーラシア大陸を放浪したときに、モスクワから北上したのが最初のバルト訪問でした。モスクワのルムンバ民族友好大学で学ぶという黒人の若者と道中知合った時に、妻がヴィリニュスに住んでいるので是非寄ってくれ、と誘われました。訪れた家がアンティックな内装でたいへん堂々とした風格を備えており、歓待してくれたリトアニア夫人は品よく美しく、そしてその母親が昔貴族であったことを物語り気高くもあり奥床しくもあり、5-600年前はヨーロッパで最も広大な領土を誇ったリトアニアの歴史を伝えてくれ、夕食を振舞われ、挙句はリトアニアの名産品である琥珀のブローチをお土産に持たされたものでした。
 1970年代から80年代はモスクワ訪問と共に同じソ連邦のビザで訪れることが出来たバルト諸国へと足を延ばしタリン、リガの古い街並みを歩き回った思い出、90年代以降のソ連邦崩壊後は、各国の新興旅行会社と契約を結びに回り、早稲田大学グリークラブの公演旅行を始めとしてバルト三国を周遊するツアーのアテンドを経験しました。そのような中で、リトアニアのヴィオレッタ(菫)さんという若い女性から聞いた話が忘れられません。
「ロシアに反発を感じて外国語選択は英語、ドイツ語を学ぶ若者が増えていますが、私はロシア語を選びました。そのわけは先ず、ロシアのテレビ電波も届くのでチャンネルの幅が広がること、2つ目はロシア人の友達がいるのでそれを大事にしたい」そして3つ目の理由を聞いた時には思わず嬉しさがこみ上げてきたのですが「ロシア文学を原文で読むことが出来るから」というものでした。
 そのヴィオレッタさんからは、以下のような武勇伝も聞きました。
20世紀末に早稲田大学に留学していたこともあり、世紀明けの2001年二十代半ばに再度日本を訪れたいと思い立ち、2か月間の夏休みを利用してヴィリニュスからロシアを往復ヒッチハイクで横断したのだそうです。僅か3万円程度の外貨を持参して、トラックなどを乗継ぎシベリアを野宿しながら延々10万キロの距離を2週間でウラジヴォストークまでやってきたとのこと。そしてウラジヴォストーク港では富山行きの貨物船を見付け船長の計らいで乗船させてもらったこと、日本では予め農業実習という体験コースを申込んでいたことで、長野のアルバイト先に滞在していた合間に留学時代の友人と会う機会も持つことが出来たとのこと、帰国に際しては往路利用させてもらった船と約束した日時に富山から再度日本海を渡ることとなり、同様のルートでヴィリニュスまで帰ったということです。ヒッチハイクでシベリア横断をしていたトラックは、モスクワに到着したときは大環状道路の内側には特別な許可がない限りは貨物を運べないということで、モスクワ市内を横断するのは徒歩で移動したことも良い思い出だったそうです。歩けども歩けどもモスクワをそう簡単には渡り切らない、モスクワは大きな街だな、と言いながら40キロ近くの道のりを朝から晩までかけて大都会を横切ったとのことでした。

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