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ヴォルガの古都ウーグリチ

ヨーロッパ最長の大河、ロシアの人々にとって「母なるヴォルガ」と親しみを籠めて呼ばれる大動脈は、その川を辿っていくことで、波乱万丈なロシアの歴史の様々な姿が見えてきます。
 ムソルグスキーの歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」をご覧になったことはありますか。プーシキンの戯曲を基とし、リューリック朝終焉からロマノフ朝創設までの間のスムータ(動乱時代)、日本では江戸幕府の始まろうとする時期にツァーリとなったボリス・ゴドゥノフ(1552-1605在位1598-1605)を描いたドラマです。
リューリック朝最後のツァーリとなったフョードル1世(1557-98在位1584-98)の義兄であるボリスが摂政として、先帝イワン4世(雷帝)の2歳となる末っ子ドミートリー(1582-1591)とその母マリヤ・ナガーヤを送り込んだ先がモスクワから北に240㎞のヴォルガ畔りの古都ウーグリチでした。
 人口3万人ほどのこの町へモスクワからリバークルーズ船「ショーロホフ号」に乗船し丸一日掛けて訪れる機会に私は恵まれたのでした。船内理容サロンではまず散髪をしてもらい、シャワー、トイレの付いた個室に宿泊、レストランでは船員によるロシア民謡を聴かせてもらうなど心尽くしのサービスもあり3度の食事を美味しく頂き、128㎞の長さのモスクワ運河北上中には幾つかの水門を通過し岸辺の変化を楽しみ、ドゥブナからはヴォルガの本流を北東へに向けて200㎞程航行、日没、日の出の美しさに圧倒されてウーグリチへ。その手前50㎞のカリャージンではウーグリチ・ダム建設によって水没した町のニコライ聖堂の鐘楼が川の中に突き出ている不思議な光景を見ることが出来ました。
 時計工場「チャイカ」があり、チーズ生産研究所があることから、「ヴォルガのスイス」と呼ばれるウーグリチは、伝説によるとヤン・プレスコヴィチ公によって937年ウーグリチの原がつくられたことがこの町の基礎となっているそうですが、クローズ・アップされるのは16世紀末幼いドミートリー皇子が謎の死を遂げたことで歴史が動き出したと言えます。てんかんの発作によってダーツ遊びに使っていたナイフが首に刺さってしまったという事故説、ボリス・ゴドゥノフ犯人説、刺客失敗説等々、事件調査をしたワシリー・シュイスキーが見解を何回も変えたこともあり、時代によってその解釈が変化していきました。
 歌劇では、ボリス・ゴドゥノフの陰謀によって死に至らしめたこと、その後実は生きていたという偽のドミートリーが出現、ポーランド軍を引連れモスクワへ進軍してくることでボリスは死ぬ迄悩まされ続ける話となっています。
ウーグリチ・クレムリン(15-19世紀)の領域の中、ドミートリー皇子が7年間暮らした宮殿は15世紀末に建てられた当時のもの、北西ロシアの特徴であるレンガ装飾の建物の内部は現在ウーグリチ歴史美術博物館となっています。
3度も現れたという偽ドミートリーが僭称者であることを証明するため、ドミートリー皇子の遺骸が掘出され殉教者として聖人に列せられこととなりました。ドミートリーの死の現場は一世紀ののち1692年ピョートル大帝の命令により血の上の聖ドミートリー教会が建てられます。教会内部にはイタリア・ルネッサンスの壁画を思わせるフレスコ画が1772年に描かれ、ドミートリーの死について物語っています。
いかにもロシア的と思われるのは、ドミートリーの死を急報した教会の鐘が、その後の混乱を起こすきっかけとなったとして罰せられ、鐘を鳴らす舌を抜かれ、鞭打ちの刑を受け、シベリアへ送られ、19世紀末アレクサンドル3世の時代に戻されたということです。そして舌のないままの姿でこの教会内に展示されています。
15世紀の教会が建っていた場所には、1713年スパソ・プレオブラジェンスキー大聖堂が建立されました。その内部には昔の教会の基礎が残されています。巨大なドーム内は柱が1本もなく、1860年に設けられた7段に及ぶイコン壁は美しく、聖堂内で歌われていた聖歌隊の澄んだ響きはいつまでも耳の奥底に残るのでした。

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