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ヴォルガの古都ヤロスラーヴリ

ヴォルガ川のクルーズ船で先ずウーグリチを訪れた後、さらにヴォルガの流れに沿い北のルィービンスク人造湖を経由して300㎞先のヤロスラーヴリの岸辺に到着したのは、船中での眠りから覚めた早朝でした。
 ウーグリチから東にまっすぐ陸路でやってくるのであれば、110㎞を2時間もかからない車移動で済むところ、ヤロスラーヴリにはソ連ブレジネフ時代1970年代終わりに訪れた思い出があり、何十年か経ってどれほど変化していることか、その時間経過を反芻しながらやってくるには船旅はもってこいでもありました。
かつてモスクワから陸路半日以上をかけて、北西70㎞先のセールギエフ・ポサード(1930-91年の間は革命家ザゴールスキーに因んでザゴールスクと呼ばれていた)、続いて70㎞先のぺレスラーヴリ・ザレースキー、更に60㎞先のロストフ・ヴェリーキー、そしてなお60㎞先にヤロスラーヴリと、いにしえの町巡りをしてたどり着いた目的地は、渋谷ロゴスキーの今は亡き料理長長屋美代さんとその息子晃さんたちを中心としてソ連各地のレストランを視察して回った最後に、歴史ある町の田舎料理を求めてのことでした。
当時は古都のイメージはなく、1932年世界初の合成ゴム工場が出来て以来、タイヤ工場を中心とした工業都市として紹介され、また映画撮影所があるということで見学に訪れれば、記念にと私たち一人一人に楽器を渡されその光景がいつの間にか短編映画に仕上げられ、今でも長屋美代さんがドラムを叩くシーンのフィルムが私の手許に残されているくらいです。
ロシアの観光スポットとして知られる「黄金の環」は、1967年にジャーナリストのユーリー・ブィチコフが1000年近い歴史を持つ古い町々を繋げて周遊し彼が名付けたのでした。「ソビエト文化」誌に「黄金の環」の紀行が記されて以降、その命名が脚光を浴びるようになったのです。モスクワの東北部の古都を線で繋ぐと環というよりは台形に近く、その台形の底辺となるウラジーミルとスーズダリが1992年に、セールギエフ・ポサードが1993年に、そして台形の左頂点となるヤロスラーヴリが2005年にユネスコの世界文化遺産に登録されてからというもの、ソ連時代には反宗教的な立場から野ざらし状態であった多くの教会や修道院が、見違えるように美しく修復されていったのです。
キエフ・ルーシにキリスト教を取り入れたウラジーミル聖公(955?-1054)の息子ヤロスラーフ賢公(978?-1054)がロストフ公であった1010年、コトロスル川とヴォルガ川との合流点の岸辺で熊に襲われ戦い斧で殺し要塞を築き上げたことで、この地に住む人々を屈服させたのがこのヤロスラーヴリの町の起こりとされています。熊は土地の信仰対象として、現在の市の紋章にもなっていますが、伝説はキリスト教と従来の多神教との戦いを表してもいたようです。
ヤロスラーフ賢公は、ロストフを去った後はノヴゴロド公、そして遂にはキエフ大公となって、キエフ・ルーシの最盛期をもたらした名君とされているのですが、父と子の対立、兄弟間の争い、血なまぐさい事件の数々が歴史書に記され一筋縄ではいかないことを痛感させられます。キエフの聖ソフィア聖堂を始めとして数多くの教会を建て文化全般を発展させ、諸外国との外交関係を確立したそうですが、スウェーデンのオラフ王の娘インゲゲルドと結婚、息子たちもポーランドや、オーストリア、ビザンチンから嫁入りを、娘たちもノルウェー、ハンガリー、フランス、イングランドの王室に嫁ぐなど、成程中世の外交基盤は姻戚関係かと頷くばかりです。
ヤロスラーヴリは2010年に建都1000年を迎えたのですが、必ずしも揺るぎない歴史とも言えず、1218年から1471年までヤロスラヴリ公国が続いていたと言われながら、黄金の環のウラジーミル・スーズダリ公国同様、1238年から1463年までの間はモンゴル人勢力の支配下にあり、公国は名目上のみであったようです。
ヤロスラーヴリで最も古い建築物は、12世紀に木造、1506-16年に石造りによって再建された「スパソ・プレオブラジェンスキー修道院です。鐘楼127段の階段を昇ると、ヤロスラーヴリの町が一望することが出来、数十年昔の面影を見つけることが出来ないほどに見事な中世都市の顔を見せていることに驚かされます。修道院の誇りとすることは、1790年に図書館で12世紀の古代叙事詩の「イーゴリ軍記」が発見されたことでした。
17世紀の府主教の館は「イコン博物館」(金曜日休館)となっており、ヤロスラーヴリで最も古い13世紀の「救世主」の聖像画、1314年の「トルガの聖母」、15世紀の「洗礼者」など2000点のコレクションの内100点が展示されています。その近くには19世紀初頭の県知事の家が「美術館」(月曜休館)となっていて、庭園にはドン・キホーテ等の彫刻が飾られており、館内は18世紀のリビツキーや19世紀のアイヴァゾフスキーの海の絵、シーシキンの風景画、叙事的なヴァスネツォフ等のロシア絵画の展示、ミニ・コンサートなどが行われるホールもあります。1647-50年に建てられた「預言者イリヤ教会」は、町の中央広場に面していて、18世紀にはイリヤの広場と呼ばれ、20世紀末まではソヴェート広場と名付けられていました。夏と冬の2つの教会があり、夏の教会のフレスコ画は80日間で完成したと言われています。
ロシア演劇史を飾る出来事として、1750年 ヤロスラーヴリに於いて名優であり名演出家であったフョードル・ヴォルコフによってロシア最初の地方劇場がつくられたということです。
1937年にモスクワ運河が完成しましたが、それまでは、輸送、流通に於いてヤロスラーヴリは、モスクワの港としての玄関口の役割を担っていました。
第二次世界大戦中 ドイツ軍によって900日間レニングラード(現サンクト・ペテルブルク)が封鎖される事態となった時には、150万人がヤロスラーヴリに疎開したとのこと。
1963年 「ヴォストーク6号」に乗って宇宙飛行をした当時26歳の女性テレシコーワはこの地方(近郊25km)の出身でもあるため、宇宙飛行中「私はカモメ(チャイカ)」と言った歴史的名言によってウーグリチの時計工場がチャイカと名付けられたのでした。 
中世ロシアの諸都市の中でヴォルガ川沿岸に建設された最初の町ヤロスラーヴリの人口は現在60万人で黄金の環の中の最大の都市となっていますが、訪れる旅人にとってはその時代時代で印象が大きく変化していくことを実感した町でもありました。

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